ひとりだけの詩:1
1:詩とは何か
自分が詩と思うものが自分の経験の中から
言葉となり音となって口から出てきたもの
それが詩である。
それを読む人が自分「ひとりだけ」であったとしても
それは立派な詩である。
それを詩だと認める人が自分「ひとりだけ」であったとしても
それは立派な詩である。
自称詩人でいいのである。
※ひとりだけの詩は「詩」であり、実在の世界をえがいたものではありません。
2:自転車
今日も私のそばを自転車が走る。
私の視界を自転車が走る。
自転車の男の子は遠くでかすかな喜びの顔を浮かべている。
そうしろと言われたのであろう。
どういう気持ちでそれを引き受けたのであろう。
男の子が自転車を走らせるのは義理と人情あるいは義侠心からか。
しょうがなくいやいや引き受けたのであろうか。
小遣いでももらっているのか。
私が仕事をやめたのは長い坂道を自転車で登るのがいやだったからだと
言いたいのであれば
それを理由に私をあざければそれでよかったのである。
それで十分に自分達の正当性を主張できたのである。
私のそばを自転車を走らせるのは
余計なことをした罪悪感からだとアピールしているのと同じである。
今日も私のそばを自転車が走る。
私の視界を自転車が走る。
公民館のスピーカーが突然私のそばで大きくがなりたてる。
笑いをこらえたアナウンスの声が大きく響く。
私のすぐそばを大型トラックが猛スピードで走りぬける。
道路のわきに真っ赤なハイビスカスが咲いている。
3:カード
スーパーに行ったら
レジで「〇〇〇カードをお持ですか」と聞かれた。
私が生活困窮者であることを知りながら聞いたのである。
どのような意図でそのように言ったしても
結果としては私をさげすんだことになる。
これが孫正義なら絶対に
「〇〇〇カードをお持ですか」とは聞かない。
ひからびたありふれた言葉を使えば「差別」なのである。
この店員の頭の構造ではこの世界に住む人々が
すべてお金によってランク付けされているのである。
この店員だけではなく日本社会のかぎりなくすべての人々が
そうなのである。
私には子供がいない。
このような社会でこれから生きていくことを想像した場合
子供がいなくてほんとうに良かったと思う。
4:ドン・キホーテ
聖職者は信者・従業員・保護者・縁者・子供を
先頭に立ててはならない。
みずからが先頭に立つべきである。
もしかれらがすすんでそうしていると言うのであれば
それをとめるべきである。
かれらは集団でいじめ・いやがらせをしているのである。
集団パフォーマンスをおこなっているのである。
聖職者はそれをうしろで黙って見ていていいのか。
うしろにひかえていていいのか。
イエスキリストはどんな時でもひとりで先頭に立った。
聖職者はイエスキリストよりも偉いのか。
たぶん神様よりも偉いのであろう。
聖職者は信者・従業員・保護者・縁者・子供を
ドン・キホーテにしてはならない。
かれらはひとりよがりの正義感によって
無謀に突っ走っているのである。
ひとりよがりの正義感によって
無謀に突っ走っているのは
私のほうであると言いたいのであれば
聖職者がみずからそれを証明すべきである。
みずからがドン・キホーテになるべきである。
聖職者は何か重大な危機に直面すると
まっさきに逃げるのである。
今がそうである。
もしそうでないと言うのであれば
さあ先頭に立とう。
5:無駄な集団パフォーマンス
行く先々に先回りして待ち伏せるストーカー行為。
スーパーにコンビニに家電店に郵便局に
私が自分のサイト・動画をアピールすると
確信しているのである。
さてその大掛かりな集団パフォーマンスの
結果はどうなったか。
まったくの無駄に終わったのである。
この労力に費やされた対価は
いったい誰が支払うのであろうか。
そのような集団パフォーマンスを行なう人達が
私のサイト・動画を理解できるとは思えない。
いや理解できない。
そのような人たちに私のサイト・動画を見て
ほしくはない。
と私が思っていることに気づかない。
どうしてこのような無駄なことができたのか。
自分たちの考えが間違っているとは
全く思わないからである。
間違っていることを絶対に認めたくないのである。
一人対多数
絶対に多数が勝つと思っているのである。
それが迷信であることは
今回完全に証明された。
6:一人対多数
私がみずからひとりで孤立することを
選んだことが私以外の人には理解できない。
隣の部屋の人もすぐ隣のアパートの人たちも
その隣のアパートの人たちも
隣の家もその隣の家もそのまた隣の家も
道路ぞいのすべての人たちが
集団でパフォーマンスをする。
これだけの人たちが私を囲み
その他多数の人たちが
私に立ち向かっているのだと
アピールしたいようだが
私にはこんなにも
たくさんのかわいそうな人たちが
いるのだとしか思えない。
私は自閉症である。
ひとりで孤立するのは
私にはむしろありがたいことである。
自閉症の心理は健常者には理解できない。
これだけの人数でおどせば
なんとかなるだろうなどと
思っているらしい。
なんともならないのである。
私はこれからもひとり孤立したままで
じゅうぶんしあわせなのである。
むしろそれがしあわせなのである。
7:釣り竿
夜の12時過ぎに真っ暗な道で竹竿を拾った。
ちょうど鉢植えの木の支えになるものを
さがしていたところだ。
真っ暗な道なのでよくわからなかったが
家に帰ってよく見るとそれは釣り竿であった。
私は釣りはしないのでさわっただけでは
釣り竿なのか竹竿なのかの区別がつかない。
もしかすると誰かが置いてあった
だけなのかもしれない。
もとの場所にもどさなかったことを
今でも後悔している。
私は道に落ちているタオルをよく拾ってくる。
あれは私が拾うだろうと
誰かが置いてあったものらしい。
釣り竿もそうであったようだ。
8:慈善のパン
役所で無料のパンをすすめられたがことわった。
お金を借りることはしても人からただで
いただくのは遠慮したい。
見栄とこれからの決意からであった。
しかしながら今は地方自治体の保護のもとで
生活している。
9:町屋小(まちやぐぁあ)
近くのレストランの入り口の中で
ほぼ百円均一の野菜が売っている。
私はここでの買い物が好きだ。
昔の町屋小(まちやぐぁあ)を思い出す。
100円玉を手渡しするところが
いいのである。
しかし店員はどうもレジの前で
しっかりと金銭のやりとりが
したいようである。
店員を困らせてはいけないので
その店にはもう行っていない。
昔の町屋小(まちやぐぁあ)の雰囲気は
いまは露店でしか見られない。
10:名誉
名誉とはどのようなものであろうか。
集団パフォーマンス・いじめ・いやがらせによって
守ることのできるものなのであろうか。
集団パフォーマンス・いじめ・いやがらせを
行なえばかえってそれが名誉を傷つけてしまう
ということに気づかないのであろうか。
気づかないふりをしているのであろうか。
気づきたくないのであろうか。
守ろうとすればするほどそれを傷つけてしまう
名誉とはそういうものなのだろう。
守るものがあるかぎり本当の名誉を
得ることはできない。
守るものがなくなった時にこそ
真実の名誉はある。
11:消毒液
スーパーの駐車場で以前の職場の女の人に
声を掛けられた。
その女の人は入り口の消毒液の前に
立ちふさがって丁寧に消毒をしている。
まるで私に手本を見せているようである。
そのあと電子マネーのチャージ機の前の
椅子に腰掛けて動かない。
私がこれからチャージをすることを
すでに知っているのである。
さも疲れたような何かを懇願するような
演技をしている。
なんで私がこんなことをしなければならないのか
というのが伝わってくる。
この人は今は時間内なのか時間外なのであろうか。
勤務手当はきちんと付いているのか。
しょうがなく引き受けたのか。
みずからすすんでそうしているのか。
頼まれても何も断らないからここまで
勤めて来られたのであろう。
私がその懇願を受け入れたなら自分の手柄となる。
受け入れなければ私が悪者になるのである。
どちらにころんでも損にはならない。
いつものあさましい手段である。
いつもいつもこの手段である。
科学的に説明すると
私はただ彼女のそばを通り過ぎただけなのである。
12:男女の演技の差
これは一般論であり例外はある。
女の人は縁起がうまい。
堂々としてためらいがない。
男の人は縁起があまりうまくない。
はずかしげでためらいがあり
目を伏せたりあとずさりしたりする。
女の人は演技をする動物である。
母親をする演技ご飯を作る演技
奥さんをする演技保護者をする演技
人生のすべてが演技なのである。
ボーボワールは言っている。
「女は女に生まれるのではなく女になるのである。」
女はつねに女であるという演技をしているのである。
女の人が演技をやめる時はどんな時なのだろう。
それは死んで棺桶の中に入った時である。
13:もったいない死に方
三島由紀夫が自決した時に川端康成がこう言った。
「もったいない死に方をした。」
もったいなくない死に方とはどのような死に方か。
川端康成はガス管をくわえて自殺した。
それがもったいなくない死に方なのか。
人が死ぬということは
すべてがもったいない死に方であり、
すべてがもったいなくない死に方である。
14:人を批難していいのか
人はあまり人を批難したがらない。
必ず自分が逆に批難されるからである。
人は人を批難することによってしか
みずからの批難をかわす手段がないのである。
批難に対する逆批難はすさまじい。
実に用意周到でまたきわめて細やかである。
人は人の欠点を探す天性の本能がある。
だから長い人生において
自分の批難に真剣に向き合うことがない。
自分の批難に向き合いたくないのである。
結局人生が終わるまで
自分自身が変わることはないのである。
変わりたくないのである。
変わる必要はないと思っているのである。
15:神を信じて生きれば楽だ
人はなぜ神を信じるのか。
それが楽だからである。
人は自分で考えるのが苦手である。
いやである。めんどくさい。
神の教えを信じてさえいれば
考える必要がないのである。
その通りにすればいいのである。
もし今まで信じていた神を
放棄することを想像すると
たえがたく不安である。
これからすべて自分で
考えていかなければならない。
おそろしい恐怖である。
それほど人は自分で考えることが
いやなのである。
16:ファッションとしての英語
それなりの大学に入って
それなりの会社に就職して
モデルばりの服に身をつつみ
かっこいい車に乗って
高めのレストランに行き
そして英会話を勉強する。
英会話の勉強もファッションの
ひとつなのである。
あいかわらず中身はからっぽである。
平安時代の貴族と同じでなのである。
少しでも上の位をめざし
日々上の位の人にへつらいおもねり
きらびやかな服で身をかざり
歌舞音楽と宴にふけり和歌を読む。
平安貴族は自分たちに中身がない
ことをよく自覚していた。
枕の草子・源氏物語を読むと
それがよく伝わってくる。
現代人はその自覚が全くない。
自覚しようとしない。
自覚したくない。
いったいいつになれば
中身に目を向けるのであろう。
17:浜辺の散歩
よく名護の浜辺を散歩する。
いつ行っても違う浜辺である。
はまひるがおもモンパの木も
ゆうなの花も浜辺の砂も
空の雲も海辺砂辺のかたちも
沈んでゆく太陽も
一日でも同じであったことはない。
この宇宙にまったく同じものはない。
きのうの扇風機は今日の扇風機と
まったく同じではないか。
と言いたいのであれば
存在する時間が違うのである。
毎日違うものが目の前にある。
それは奇蹟なのである。
18:浜千鳥
浜千鳥はあんなに小さいのに
颯爽として自信に満ちてりりしい。
堂堂として静かで落ち着いている。
浜千鳥は誰かに自分を
見せようとはしていない。
私は浜千鳥のような人間に
出会ったことがない。
19:夕日
夕日はなぜあんなに美しいのか。
これから沈んで行くのである。
これから消えようとしているのである。
これから消えようとするものが
なぜあんなに美しいのか。
20:千年木
六年前に農大祭でセンネンボクを買った。
いまは天井までとどき三つの枝に分かれて
天井をはっている。
二度花をつけた。
三年に一度咲いたのだ。
その花は二日ほどで枯れた。
小さな白い花をたくさんつけ
それほどはなばなしい花ではなかった。
21:簡単に英語を習得する方法
英語を簡単に習得する方法はない。
「Easy come, easy go」。
簡単に身に着けたものは
簡単に消えてしまう。
私は絶え間ない努力をして
英語を習得した。
その私が簡単に英語を習得する
方法を教えられるわけがない。
私は英語を教えることをやめた。
22:人を批判する資格
人を批判するのに資格がいるのか。
もし資格がいるのなら
誰がその資格を認定するのか。
もしその資格を認定する人が
いるとするならば
その資格を認定する人は
いったい誰が認定するのか。
人を批判するのに
資格はいらないのである。
人を批判すれば必ず逆批難される。
その逆批難に耐えることができる人が
人を批難すればいいのである。
23:靖国神社
先の大きな戦争において
兵士は親兄弟のため家族のため
親戚友人のため国のためを思って
戦場へ向かった。
兵士たちはもし戦死したなら
靖国神社にまつられ
残された国民が未来永劫
自分達の霊に敬意を表してくれる。
そう思って戦死したのである。
それが今となって事情が
変わりましたのでそれはできません。
ではあまりにも気の毒で申し訳がたたない。
靖国神社参拝は外交問題でもなく
政治問題でもなく心の問題である。
A級戦犯が合祀されているのは問題でない。
嫌いで顔を見るのもいやな人がいるので
あの人の葬式には行くなということなのか。
A級戦犯がいやなら無視すればいいのである。
靖国神社参拝者は靖国神社参拝反対者に
靖国神社参拝を強制したりはしない。
靖国神社参拝反対者はなぜ靖国神社に参拝
するなと言うのか。
日本は戦後自由な国になったのではないか。
靖国神社参拝はその人の自由なのである。
24:英単語の覚え方
英単語は書いて覚えるのである。
何度も何度も書いて覚えるのである。
自分が聞こえるように発音しながら
繰り返し繰り返し書いて覚えるのである。
自分の英語を聞くというだけでも
たいへん勉強になる。
発音記号を習得して発音は正確に
覚えなければならない。
この方法には読み書き聞き話す
という外国語習得の基本が
すべておさまっているのである。
原始的な方法というかもしれないが
原始的なものを馬鹿にしてはならない。
人間の脳自体が原始的なのである。
原始的な脳に現代的な方法は通用しない。
25:書道の半紙
家が貧乏であった。
ノートよりも半紙の方が安かった。
半紙の裏と表に英単語を書いて覚えた。
漢字もおなじであった。
裏表がうまった半紙で書道をした。
英語と漢字と書道
違った世界のようであるが
私にとっては同じ半紙の上の世界であった。
勉強ができないことを境遇のせいに
してはならない。
どのような境遇であろうとも
それを生かすことができるのである。
26:英語の発音について
英語の講師をしていた時
生徒が聞いた通りに英語を発音してくれない。
なんどやっても同じである。
なぜ聞こえた通りに発音できないのか。
とても不思議であったがあとで分かった。
それが普通なのであって私が特別だったのだ。
私はある言語の発音をかなり再現できる
特別な能力があるようだ。
音楽関係の人は音を再現する特別な能力がある。
この才能がない人は音楽には向かない。
歌手の人には英語の発音の上手な人が多い。
江利チエミの「サントワマミー」の
英語の発音は完璧である。
彼女はたぶん英語を読むのではなく
聞いた通りに発音したのだろう。
私の英語の発音を聞いた人は
留学の経験があるのかと必ず聞く。
留学したと言えば納得する。
なぜ納得するのだろうか。
私は英米の留学経験者で英語の発音が
上手な人に出会ったことがない。
英語の発音を再現する特別な
才能のない人はどうすればいいのか。
英語のそれ以外の分野を努力すればよい。
発音にそそぐ時間をほかに向けるである。
能力を平等にするのは努力なのである。
27:人に評価されなくてよい
人に評価されなくてもいい
という境地になった時
世界は輝く。
世界が暗くじめじめとして
めんどくさくていやなのは
人に評価されないからである。
人に評価されない自分は
自分自身だけが評価できればいいのである。
自分一人だけが評価できればいいのである。
自分でも評価できないというのであれば
自分だけが評価できる自分になるように
ひたすら努力すればいいのである。
その努力ができない人は
人にも自分にも評価されない自分で
あればいいのである。
自分もまた人なのである。
なぜ人の評価を望むのか。
人に評価されても評価されなくても
自分は自分自身なのである。
28:赤花(あかばなあ)
赤花(あかばなあ)や何故(ぬうんち)彼(あ)んし
清(ちゅ)ら赤(あかあ)とぅ咲(さ)ちゅる。
此(く)ぬ赤(あか)さあ此(く)ぬ世界(しけえ)ぬ
物(むの)お有(あ)らん。
別(びち)ちぬ宇宙(うちゅう)から飛(とぅ)ん出(じ)てぃ
来(ちゃ)ある物(むぬ)どぅ有(や)る。
29:おもろさうしの朗読
おもろさうしは
沖縄人の魂の声である。
沖縄人の心の音楽である。
その音声は500年以上も
うずもれていたのではない。
再現される日を待っていたのである。
30:夢はかなう
夢はかなう。
夢は必ずかなう。
それが職業とか資格とかお金とか名誉とか地位とか
でなければ。
それ以外の夢があるのか。
人の評価を必要としない夢である。
人の評価を必要としなければ
どんな夢でもかなうのである。
絵を描けば絵描きである。
歌を歌えば歌手である。
詩を書けば詩人である。
小説を描けば小説家である。
書を書けば書家である。
水泳をすれば水泳選手である。
プログラムをすればプログラマーである。
なぜ人の評価を必要とするのか。
人の評価を必要とするから「夢」なのである。
31:俳句
夜の海 目にあざやかな 曼殊沙華
32:発達障害
もし現在の診断基準から
イエスキリストが発達障害者であると
診断されたとしたらどうなるか。
まったくどうもならないのである。
彼の教えも聖書の教えも全くこれまで通りである。
彼が発達障害者であったとしても
彼の生涯も教えも何も否定はされない。
自分の会社の上司が親が兄弟が親戚が
ある日突然発達障害と診断されても同じである。
それまでの生涯彼らがやってきたこと
すべてがそのままであり
否定されるところはひとつもないのである。
33:平敷屋朝敏
平敷屋朝敏のころの琉球王国は貧しかった。
彼はそれを何とかしたかった。
なんともならないけれどもなんとかしたかった。
彼は琉球王国を事実上支配していた薩摩藩の
在番所に三度訴状を投げ入れた。
彼は捕らえられてはりつけの刑となった。
わざと先をとがらせていない木のやりで
なんどもなんども突かれた。
彼がやったことは無駄なことであったのか。
ほかの人たちは何もしなかった。
何かをした彼は無駄であったのか。
34:蔡温
彼は琉球王国の立派な政治家だったらしい。
彼の漢詩には王をたたえた忠誠の詩がある。
尚敬王は彼のために首里赤平に邸宅を建てた。
尚敬王は自分の長女を彼の長女に嫁がせた。
立派な政治家は自分の家は自分で建て
そのような縁談はことわるものである。
35:現在の自分を肯定する
人は過去を振り返って後悔する。
あの時ああすればよかった。
あの時なぜそうしなかったのか。
なぜ過去を後悔するのか。
それは現在の自分を肯定していないからである。
現在の自分が肯定できれば
過去の自分はすべて肯定されるのである。
後悔することはひとつもないのである。
過去のどんな小さなできごとも
はずかしい経験も忘れてしまいたいことも
すべてが今の自分を形作っているのである。
36:介護施設
介護施設の入居者に自由はない。
そとの世界にも自由はない。
管理者・介護士の言うことを
聞かなければならない。
日々が規則によって管理されている。
規則に従って生活していれば
何も考えることはない。
まわりの人たちと同調・強調
しなければならない。
できなければ孤立する。
そとの社会も全く同じである。
全ての学校・会社・役所・組織が
全く同じであることに気づいていない。
37:三島由紀夫の行動力
三島由紀夫は吉田松陰を尊敬している。
吉田松陰はあれほどの学者でありながら
行動力があった。
いまの基準で言えばテロリストと
言えるほどの行動力である。
三島由紀夫はそれをうわまわる。
クーデター未遂事件をおこしたのである。
事件のよしあし是非を論じようとは思わない。
三島由紀夫は小説家である。
小説家は机の上でのペンの作業である。
行動力を必要とはしない。
小説を書くということは身をけずる
大変な仕事である。
生涯をかける困難な事業である。
三島由紀夫は小説家として名を残した。
その上にあの行動力である。
彼の行動力に尊敬の念をいだくのは
私だけなのであろうか。
38:琉歌
汀間(てぃま)ぬ福木道(ふくぎみち)
浜(はま)んかい降(う)りてぃ
吾(わん)一人(ふぃちゅい)立(た)てぃば
太陽(てぃだ)ぬ落(う)てぃてぃ
39:短歌
ゆうな木の遠くに見ゆる勝宇岳海はまさおに空はましらに
40:祖国復帰と琉球語
祖国復帰の代償として琉球語を失った。
沖縄人は日本人である。
日本人としてのアイデンティティーは何か。
日本語である。
日本人あることをアピールするために
県民がいったいとなって
琉球語を使わないことにした。
沖縄は日本に復帰して日本人になった。
同時に琉球人であることをやめた。
41:アメリカの統治下でなぜ沖縄は英語を普及させなかったか
米軍の占領下で英語を普及させよう
という運動があった。
それは駄目となった。
沖縄は日本復帰をめざしていた。
英語を普及させるわけにはいかなかった。
せっかくのチャンスだから外国語として
英語を普及させればよかったのである。
あれだけのアメリカ人がいたのである。
チャンスを生かせないということの
後悔はあとでしみじみとわかる。
42:Yearning America
I yearned to go to America.
It turned to be just a dream.
America was a dream.
Where is my dreaming America?
Now, America is not what I yearned.
I don’t want to go to America.
For now and for ever.
44:Philadelphia streets
Homeless,homeless,homeless,homeless.
They don’t look at anything.
They can’t look at anything.
They don’t have yesterday, today and tomorrow.
They don’t have “ now”.
What is homeless?
That is that who doesn’t have “time”.
45:New York
I have never been to there.
I wouldn’t like to go there.
How many times have I heard
The word “New York”?
New York is just in my imagination.
I want New York to be in the imagination.
I don’t want New York to be out of the imagination.
The real New York is in my mind.
46:Dohtombori in Osaka.
I walked in Dohtombori in search of money.
I had no money.
I walked to find a coin.
I had no friend nor a man I knew.
There was the Tenjin Festival around here.
All the people looked forwards.
I looked down to seek for a coin.
People except me enjoyed the festival.
A lot of people walked while eating.
I tried and tried to meet a coin.
I couldn’t find any coin at last.
I slept a vacant house under construction.
It was so hot in the season of Tenjin Festival.
47:俳句
砂浜のやどかりを打つ夏しぐれ
48:短歌
夕闇を歩む浜辺は深々と食い込む靴に波が寄せ来る
49:琉歌
蝶(はべる)ねえ家(やあ)や
有(あ)いがすらとぅ思(む)てぃ
何処(まあ)迄(までぃ)ん追(う)うてぃ
行(い)ちゅる童(わらび)
50:薬師寺
本土(やまとぅ)ぬ奈良(なら)んかい
薬師寺(やくしじ)でぃ言(ぃゆ)る寺(てぃら)ぬ有(あ)ん。
其(う)ぬ寺(てぃら)ぬ坊主(ぼおじぇ)え
寺(てぃら)ぬ案内(あんねえ)ぬ一杯(いっぺえ)上手(じょおじ)有(や)ん。
「寺(てぃら)あ法隆寺(ほおりゅうじ)、坊主(ぼおじぇ)え薬師寺(やくしじ)」
でぃ言(ぃゆ)る言葉(くとぅば)ん有(あ)ん。
今(なま)あ如何(ちゃあ)成而居(なとお)がすら。
世(ゆ)ぬ中(なか)あ変(か)わてぃ行(い)ちゅる物(むん)。
薬師寺(やくしじ)ぬ坊主(ぼうじ)ぬ言葉(くとぅば)有(や)ん。
寺(てぃら)ぬ案内(あんねえ)ぬ上手(じょおじ)選(ゆ)か
人(っちゅ)ぬ道(みち)ぬ案内(あんねえ)為(す)しがどぅ
坊主(ぼおじぇ)え有(あ)らんがやあ。