表紙          10



ひとりだけの詩:7

 

1:中国人留学生

 

30代前半のころ神戸の中国人留学生と交流した。

天安門事件の前であり彼らは民主化に燃えていた。

胡耀邦・趙紫陽の時代であった。

毎日のように中国語を教わった。

直接中国人から発音を教わるのは有難かった。

中国語以外にもいろいろなことを教わった。

清華大学出身の「楚辞」の専門家がいた。

今もときどき楚辞を取り出して読んでいる。

漢詩は現代ペキン音で読んだりする。

漢文は全て音読みで読んで理解する。

音読みはかなりなまった中国語である。

発音のへたな人が英文を読むのと同じである。

発音がどんなになまっていても英文は理解できる。

中国人は意外と漢字を知らなかった。

また驚くほど字がへたであった。

正統的な唐代の楷書である私の書に感心していた。

簡体字ではない正字を理解する私に驚いていた。

中国人がみんな漢字が出来ると思うのは迷信だ。

英米人も英語の単語をみんな知っているわけではない。

日本人が日本語を知らないのと同じなのだ。

どこの国の人も自国の言語・文化をあまり理解はしていない。

 

2:ハングル

 

韓国語の会話は理解できない。

ハングルの読み書きはできる。

在日韓国人三世にプロポーズしてふられた。

はらいせ・しかえしにハングルを勉強した。

やることがはちゃめちゃであった。

動機はまったくどうでもいいことだ。

勉強の結果は思わぬところで役に立った。

「海東諸国紀」のハングルが読めた。

15世紀の琉球語を再生することが出来た。

 

3:神戸新開地のアパート

 

女の人からアパートに招待された。

引っ越したばかりで大きな部屋に

ベッドが一つだけであった。

月餅をおみやげに持って行った。

いろいろと話をして帰った。

家に帰って気が付いた。

私にそういう関係を求めていたのだ。

鈍感で気が付かなくてよかった。

彼女にはかなりのお金を貸していた。

すべてをちゃらにしようと思ったのだろう。

彼女に会ったのはそれが最後であった。

 

4:祖母のひもの束

 

私の母の母が亡くなってしばらくだった。

タンスのすみから包装紙をくくっていた

ひもの束が出て来た。

祖母は昔かたぎの人でなにしろ

どんなものでも捨てることができなかった。

まとめてたばねておいていたのだ。

母はそのひもの束を両手に持って

二時間くらい泣いていた。

ものを大切にした祖母の思い出が

つぎつぎとよみがえって来たのだろう。

ひもの束を両手に持って二時間泣き続ける。

人間とは時として理解のかなたに存在する。

 

5:交番の思い出

 

神戸北野坂を深夜に友だちと

二人で歩いていた。

二人とも酔っていた。

私の連れが突然自転車置き場の

自転車を次々と転倒させた。

運悪くそれを持ち主が見ていた。

二人とも交番に連行された。

いろいろと調書を書かされた。

両手の指紋まで取られた。

私には止める間もなかった。

警官は私を共犯者のようにあつかった。

警官には自分のストーリーがあるのだろう。

警察・検察・裁判所も同じなのだろう。

自分たちだけのストーリーを持っているのだ。

 

6:神戸の薬物中毒者

 

深夜に北野坂の横断歩道を

真っ裸の女性が歩いていた。

薬物中毒らしい。

神戸はきらびやかな観光地だ。

しかし極道の町でもあった。

私もテレビ・雑誌でおなじみの

有名な極道の親分・幹部を直接見た。

電話で応対したこともある。

ほんとうの神戸を知らない人は多い。

 

7:大越百貨店

 

沖縄三越の前の名前は「大越」であった。

小学校6年の時「吉川英治展」を見に行った。

実際に使っていた机や眼鏡・万年筆などがあった。

文学者というものがいることを知った。

あのころは遠い遠い存在であった。

今は文学が身近である。

文学者がそれほど偉いとは思わない。

大越へは歩いて行った。

小学生には遠かった。

 

8:国場幸太郎

 

国場幸太郎は国場組の創業者である。

小学校卒業後12歳で大工見習となる。

17歳で棟梁となり20歳には

小学校の建築を請け負った。

戦前は沖縄の飛行場の建設にたずさわった。

彼と月代の宮祭で同席したことがある。

私と同じく第一尚氏の末裔らしい。

苦労が体全体ににじみ出ている感じだった。

土建屋のおっさんらしく服装には無頓着だった。

戦後は米軍基地建設に従事した。

県民は基地建設反対運動の真っ只中だった。

どのような心情であったのか私には想像できない。

彼は誰かがやらなければならないことをやった。

彼の建設した基地は今も沖縄に存在する。

 

9:屋良朝苗

 

屋良朝苗は沖縄最初の公選主席であった。

そして最初の公選知事でもあった。

もともとは教育者であり沖縄県の

教職員組合の会長であった。

沖縄は教職員の力が大きな県である。

他県では就職先がみつからずにしかたなく

教職員になるのが一般的であった。

彼は主席そして知事にかつぎ出された。

選挙カーのドア越しに握手をしたことがある。

とてもやわらかく暖かい手であった。

政治家としての評価は私にはできない。

沖縄復帰前後の激動期に沖縄をリードした

ことは功績と言える。

 

10:瀬長亀次郎

 

瀬長亀次郎に那覇市の文教図書で遭遇したことがある。

まったくふつうに本の立ち読みをしていた。

特徴のある顔だがやっぱりふつうのおっさんだった。

那覇市長の時米軍に補助金を打ち切られた。

那覇市民はすすんで納税した。

納税率が最高の時には90パーセントを越えた。

人柄が立派なのである。

演説が特徴的で説得力がある。

生活が質素であった。

チリビラーだけのソーミンチャンプルーが好きだった。

節を曲げない彼の闘志を私は尊敬する。

 

11:夏休み

 

学校の夏休みの思い出はほんとど全くない。

ただ毎年海水浴に行ったことは覚えている。

その他の記憶は全く思い出せない。

私は勉強は好きだが学校は嫌いだった。

学校から解放された夏休みは私には天国だった。

私がもっとも私らしかったのが夏休みだ。

もっとも自分らしい時の記憶がないのは

むしろ当然なのかもしれない。

 

12:学校の道徳の時間

 

中学校のころは道徳の授業がなかった。

授業時間はあったが授業がなかった。

いつも自習であった。

沖縄県の反戦教育はすさまじかった。

道徳教育反対と反戦が同列だった。

道徳の教科書を渡されての自習だった。

道徳の教科書は私にはおもしろかった。

なんどもくりかえし読んだ。

今ふりかえると他の授業よりも

道徳の授業時間のほうが私には勉強になった。

 

13:詩は心の中にある

 

詩は心の中にある。

心の外にはない。

外に出て詩を探すことはしない。

詩は家の中にあるのだ。

 

14:有名人に出会う

 

私はよく有名人に出会った。

私以外の人でも東京にいれば必ず有名人に出会う。

ただ気づかないだけなのだ。

渋谷のパルコの前を友達と歩いていた。

NHKのほうから星野知子が歩いて来た。

連れは通り過ぎるまで気が付かなかった。

新宿の高野フルーツパーラーの前を

別の友達といっしょに歩いていた。

むこうから岡田奈々が歩いて来た。

連れは通り過ぎるまで気が付かなかった。

電車に友達といっしょに乗っていた。

はすむかいに市毛良枝が座っていた。

座っている場所と人名を言ってもわからなかった。

連れは市毛良枝を知らなかったのだ。

私は記憶力がいい。

有名人の名前と顔をだいたい覚えている。

人物の識別能力もある。

有名人に出会うには記憶力と識別力が必要なのだ。

 

15:学校給食の脱脂粉乳

 

小学校のころの給食は脱脂粉乳であった。

本土でも完全に牛乳に切り替わったのは

1975年ごろらしい。

脱脂粉乳はユニセフからの援助物資だった。

そのころまで日本は援助を受けていたのだ。

あまりおいしくはなかった。

乳糖不耐症の私にはきつかった。

あれをおいしいと思った児童はいたのだろうか。

現在の日本が存在するのは50代以上の人のおかげだ。

 

16:ニクソンショック

 

1971年ドルが突如変動相場制となった。

それまでは一ドルが360円の固定相場だった。

翌年に沖縄は日本復帰をひかえていた。

このタイミングは沖縄県民にショックであった。

もう一年ほど延ばしてほしかった。

1972年5月15日にドルが円となった。

一ドルが305円であった。

痛恨の祖国復帰であった。

 

17:ひめゆりの塔事件

 

ひめゆりの塔に献花しようとした皇太子に

火炎瓶がなげつけられた。

左翼過激派によるテロ事件であった。

皇太子は今の上皇平成天皇である。

さいわい怪我はなかった。

火炎瓶を投げたのは沖縄人であった。

平成天皇はその後も4回沖縄を訪問した。

琉歌も勉強されている。

まれに見る人格者である。

 

18:昭和天皇

 

尊敬する人は誰かと聞かれたら

昭和天皇と答える。

人かどうか疑問に思えるほどである。

あの大戦の時国民はみんな一億総玉砕をとなえていた。

天皇は降伏しても日本は必ず立ち直ると信じていた。

実際にそうなった。

あの状況下での判断力はすさまじい。

戦後マッカーサーと会見した。

戦争の責任は自分一人にある。

自分はどうなってもいいからどうか国民のことは

くれぐれもよろしくおねがいしますと言った。

初めてアメリカを訪問した。

戦後日本が復興できたのはアメリカのおかげである。

と言って心から礼を述べた。

昭和天皇は「人」の領域を超えている。

 

19:平成天皇

 

初めて国民の前にひざまずいた天皇である。

国民のまえにひざまずき

国民と同じ目線になった天皇である。

昭和天皇にもできなかった。

昭和天皇に比肩する天皇である。

 

20:砂川事件

 

砂川事件は裁判所が下した最初の自衛隊違憲判決であった。

結局最高裁に上告され自衛隊は違憲ではないことになった。

高度な政治判断に裁判所が立ち入るべきではないという

「統治行為論」が採用されたのだ。

田中耕太郎最高裁長官は最高裁判事の全員に根回しした。

反対意見はなかった。

砂川事件の裁判長伊達秋雄は左遷された。

以後日本の裁判所は最高裁事務局の統制下におかれた。

裁判官は最高裁の官僚となったのである。

現在の裁判官には本当の意味での自由裁量は存在しない。

 

21:Does God exist?

 

If God should exist,

I would ask him to give me a strong mind.

The mind that does not depend on God.

The mind that does not need anybody’s help.

The mind with that I can live alone.

If I could live alone,

God needs not exist.

 

22:杞憂

 

天(てぃん)ぬ地(じい)んかい落(う)てぃてぃ来(ちゅう)る

心配(しわ)為(す)る人(っちょ)お居(うぅ)らん。

人(っちょ)お常(ちゃあ)目(みい)ぬ前(めえ)ぬ心配(しわ)どぅ為(す)る。

目(みい)ぬ前(めえ)許(びけ)え見(んん)而居(ちょお)けえ

支(ちけ)え無(ねえ)らんでぃ思而居(うむとお)ん。

大事(ううぐぅと)お目(みい)ぬ遥(かあ)ま先(さち)んかいどぅ有(あ)る。

 

23:教公二法阻止闘争事件

 

1967年立法院が沖縄の教職員に占拠された。

教職員の争議行為を禁止する法案が提出されたのだ。

採決の日に泊まり込みの教職員が立法院に突入した。

警官は一度は排除したが結局は突破され占拠された。

立法院は無機能となり法案の可決は無理となった。

沖縄の教職員は警察よりも強かった。

警官は教職員の教え子だったのだ。

この事件で沖縄の警察官は自分たちの無力をさとった。

教職員はますます政治闘争にのめり込んでいった。

 

24:姫路市立美術館

 

私は姫路市立美術館の友の会の会員であった。

すぐ後ろが姫路城である。

旧陸軍が使用していた赤レンガの建物である。

現在の館長は永田萌である。

企画展は必ず見た。

國富圭三コレクションの常設展を毎回見た。

世界の有名画家の実物を見ることができた。

ほんものを見る目が多少はできたかと思う。

絵画は実物をみなければならない。

絵画にかぎってことではないが。

 

25:姫路文学館

 

姫路文学館は中からきれいな姫路城が見える。

現在の館長は数学者の藤原正彦である。

和辻哲郎の中学校のノートが展示されていた。

丁寧できれいな字であった。

私は63歳であるが彼の中学校の字には及ばない。

彼の本はけっこう読んだ。

私は彼の哲学よりもたくさんの哲学的な知識がある。

それが時代というものだ。

彼の中学校の時代にはあのぐらいの字が書けた。

現在は彼の哲学以上の哲学的知識が氾濫している。

 

26:柳田国男

 

柳田国男は民俗学者である。

兵庫県神崎郡福崎町の出身である。

和辻哲郎も近くの出身である。

柳田国男の「日本で一番小さな家」に行った。

私には立派な家に見えた。

彼の直筆の書を見た。

和辻哲郎よりもきれいな字であった。

柳田は最初小説家を目指していた。

田山花袋の「蒲団」を読んで小説家はやめにした。

貧しい農民がこんなにたくさんいるのに

小説家は人のために何の役にもたたないと思った。

彼は貧しい農民のためになりたかった。

民俗学をころろざした。

発狂の直前までいったこともあるらしい。

想像以上に困難な仕事だったのだろう。

沖縄語辞典の編集にもかかわっている。

 

27:藤林益三

 

藤林益三は弁護士出身の唯一の最高裁長官である。

あとは裁判官か検事出身者か学者である。

これから弁護士出身者が最高裁長官になる可能性は低い。

「津地鎮祭訴訟」では最高裁長官みずから反対意見を書いた。

非常にユニークな最高裁長官であった。

 

28:アグネス・チャンの日本語

 

アグネス・チャンは日本人と結婚して

何年も日本に住んでいる。

何年日本に住んでもあの日本語である。

アグネス・チャンの英語は

日本語ほどなまってはいない。

アグネス・チャンが特別なのではない。

何年外国に住んでもその国の言葉を

ネイティブ並みに話すことは

非常にむずかしいということである。

歌手にして学識が高い彼女が

それをみごとに証明している。

 

29:佐藤首相来沖

 

1965年佐藤栄作首相が来県した。

日本の総理大臣としては初めてであった。

那覇空港で演説が行なわれた。

「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり

わが国にとって戦後が終わっていない。」

国映館の演説内容には米国の圧力があった。

基地の重要性を述べよとのことだ。

住民のデモ隊にはばまれた。

米軍基地内に宿泊した。

 

30:青法協

 

青年法律家協会は加藤一郎・三ケ月章などが発起人だった。

左翼系の政治的団体であると最高裁事務局は認定した。

青法協会員の裁判官が再任官を拒否された。

最高裁事務局は中国共産党と逆の同じことをやっている。

 

31:沖縄人は英語を話す

 

復帰前は本土に行く場合パスポートが必要だった。

アメリカの高等弁務官の署名入りだった。

本土の人たちは沖縄人は英語を話している

と本気で思っていた。

偏見とはおそろしい。

復帰後はだんだんそうではなくなっていく。

しかし復帰前の沖縄人は英語を話していた。

という偏見は長い間消えなかった。

今もそう思っている人たちが存在する。

 

32:桜島

 

日本一美しい山は富士山である。

二番目に美しい山は桜島だと思う。

桜島は山の名前なのか。

桜島という山であり島である。

鎌倉時代に鹿児島を最初に訪れた

島津の殿様はなんとへんぴなところだ。

と思ったに違いない。

しかし桜島を見て心が一変しただろう。

なんという美しいところだ。

私は桜島を見ることができた。

それだけで生まれてよかったと思える。

桜島は沖縄語辞典にのっている。

 

33:付け揚げそば

 

「溝辺空港」地元の人たちは

鹿児島空港をそう呼ぶ。

鹿児島空港は霧島市にある。

成田空港・伊丹空港と同じだ。

溝辺空港で「付け揚げそば」を食べた。

そばの上に丸い大きな付け揚げがのっていた。

そばの上にのせる具としては最高である。

エビの天婦羅はたいしたことはない。

どうして全国的に普及しないのか。

私は沖縄そばの上に長方形の付け揚げを

まるごとのせて食べる。

裏表を油で焼いてのせるともっとうまい。

付け揚げはほんとうにおいしい。

 

34:人の力をかりて自殺する

 

西部邁のユーチューブを見た。

とても共感する。

私はけして右翼ではない。

もちろん左翼でもない。

西部邁は人の手をかりて自殺した。

その良し悪しは論じたくない。

私が言いたいのは人の手をかりないで

自殺ができるのかどうかということだ。

投身自殺をすれば遺体の処理は誰がするのか。

水死・服毒など自殺者はみな検死解剖が必要だ。

遺体を扱う人達は多数である。

死んだ時点で自殺の完了とはならない。

自殺は必ず人の力をかりなければならない。

 

35:小笠原の日本復帰

 

1968年に小笠原諸島が日本に復帰した。

それまではアメリカの統治下にあった。

太平洋戦争でアメリカ軍は硫黄島を占領した。

小笠原諸島には上陸しなかった。

勝手に小笠原諸島を統治下においたのだ。

住民の多くは本土に移住した。

おもしろいことには沖縄と違って

小笠原諸島では英語が公用語であった。

教科書も英語であった。

 

36:おばさん

 

亡くなった私のおばさんはユタであった。

本人は否定しているが客観的に見てそうである。

まわりの人は神(かみ)ん人(ちゅ)と言っていた。

神垂(かみだあ)りいを目にした。

いわゆる神懸かり:トランス状態である。

日本特有の巫病の一種である。

ユタ・ノロは私には身近な存在だ。

私がおもろそうしに興味を持ったのは

おばさんの影響が大きい。

 

37:あさきゆめみし

 

大和和紀が源氏物語を漫画化したのが

「あさきゆめみし」である。

源氏物語の本文はむずかしい。

言葉以上に生活様式の理解がむずかしい。

読みながら風景をイメージできない。

ただ言葉だけが頭を流れていく。

その背景・イメージを漫画化したのだ。

書き始めた当時は資料がほとんどなかった。

たいへんな苦労であったと思う。

私も源氏物語大成の図録で勉強するが

自分でイメージすることはむずかしい。

源氏物語を絵で見ることができる。

現代のわれわれはしあわせである。

原文への大きな橋渡しである。

 

38:あんみつ姫

 

「あんみつ姫」は倉金章介の漫画である。

時代考証がはちゃめちゃである。

現代の事物が登場する。

現代の出来事・事件が登場する。

江戸時代なのか現代なのかの境目がない。

それが「あんみつ姫」である。

漫画はフィクションである。

江戸時代を現代に引き寄せた。

江戸時代を現代化した。

それが「あんみつ姫」である。

 

39:東山魁夷の障壁画

 

唐招提寺御影堂の障壁画を二度見た。

一度は三越の東山魁夷展であった。

二度目は唐招提寺御影堂だ。

障壁画はこの世界を描いてこの世界ではない。

まったく別の世界である。

別の宇宙である。

別の世界・別の宇宙をえがくことができる。

画家というのは最高の芸術家である。

 

40:唐招提寺

 

唐招提寺は日本一掃除の行き届いた寺だ。

いつ言ってもゴミが一つも落ちていない。

寺の隅々まで清潔感がただよっている。

寺のすべてのものが静寂さを秘めている。

観光客はその静寂さに飲み込まれていく。

鑑真和上の教えがいまだに生きている寺だ。

 

41:Birth, Life and Death

 

You cannot be conscious about your birth.

You cannot be conscious about your death.

Can you be conscious about your living?

 

42:年年歳歳花相い似たり

 

花(はな)あ何時(いち)ん常(ちゃあ)同(ゆ)ぬ如(ぐとぅ)咲(さ)ちゅん。

人(っちょ)お一時(いっとぅち)一時(いっとぅち)変(か)わてぃ行(い)ちゅん。

変(か)わらん物(むぬ)がどぅ清(ちゅ)らさがやあ。

変(か)わてぃ行(い)ちゅる物(むぬ)がどぅ清(ちゅ)らさがやあ。

 

43:介護士

 

介護士は心で介護しているのではない。

技術と経験ときまりで介護しているのだ。

介護士に心を求めてはならない。

介護士に心をもとめなければ

入居者は充分暮らしていける。

 

44:島田叡

 

島田叡は沖縄最後の官撰知事だ。

前任者は他府県出張のまま香川県知事になった。

沖縄には米軍の上陸がせまっていた。

沖縄県知事は成り手がなかった。

島田叡は即時に承諾した。

「誰かが行かなければならないのなら私がいく。」

「死ぬのがいやだからほかの人に頼めとは言えない。」

沖縄戦を目前にして立派な知事が来た。

 

45:大田實

 

大田實は沖縄戦を指揮した海軍のトップであった。

自決を前に日本本土に電報を送った。

「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ

御高配ヲ賜ランコトヲ」

現在の日本政府は大田實の最期の言葉を

どのように考えているのか。

 

46:漢那憲和

 

漢那憲和は海軍少将で衆議院議員であった。

昭和天皇は皇太子時代に欧州を旅行した。

その時の御召艦「香取」の艦長であった。

48歳で予備役となった。

昭和天皇が言った。

「あの若さで予備役はあまりに早いのでは。」

沖縄の軍人としては最高の階級であった。

退役後に衆議院議員となった。

昭和天皇が気にかけたいた人物であった。

 

47:韓国の時代劇ドラマはファンタジーである。

 

韓国の時代劇ドラマに時代考証はない。

制作者は歴史書が読めない。

そもそも漢字が読めない。

衣裳・調度品・建物:登場人物など

すべては想像の産物である。

想像だけであれだけのドラマが出来上がる。

韓国の時代劇ドラマは過去の時代へと

われわれを招待してはくれない。

ファンタジーの世界へいざなうのだ。

 

48:東京

 

東京にいた時はいつも自分が卑屈になった。

自分がいかに小さくどうでもいいような存在かを

いやというほど分からせてくれた。

東京は人間を小さな存在にする。

人間はもともと小さな存在なのだ。

それが東京にいるとよくわかる。

東京に住み続けることのできる人は

それだけですごいと思う。

 

49:越谷

 

埼玉県の越谷に1年ほどいた。

まだいなかであった。

浅草で最終電車に何度も乗り遅れた。

一度はタクシーで一度はシロタクで

三度は歩いて帰った。

浅草から越谷までは遠かった。

道がわからず東武線の線路をたどった。

夜道の田舎はほうとうに田舎であった。

真っ暗でなにもなかった。

沖縄の田舎者が言うことではないが

越谷が田舎であることを実体験した。

 

50:本八幡

 

千葉県の市川市に一年ほどいた。

本八幡駅から5キロぐらいの距離であった。

駅までは自転車であった。

木造の古いアパートであった。

四畳半でトイレが汲み取り式であった。

すぐ隣の住人は酒乱であった。

夜中に帰って来て大声でわめいていた。

朝早くから牛乳配達のトラックが

けたたましい音をたてて止まった。