表紙          10



ひとりだけの詩:10

 

1:名護市長への手紙の内容の一部・2

 

一人暮らしのひとりごとは駄目なのか。

一人で暮らしているとひとりごとが多い。

無意識にでてくる。

おさえようがない。

それほど大きな声ではない。

大きければひとりごとではない。

詩は音声である。

確かめるために小さな声で読む。

いまだに英語を勉強している。

単語を小さな声で読む。

これらはすべて許容範囲だと思う。

なぜそれがいけないのか。

基本的人権なのではないか。

いびき・ねごと・寝返りも同様である。

 

2:名護市長への手紙の内容の一部・3

 

私は一日4時間ワープロに向かっている。

4時間読書をしている。

それ以外の時間はだいたい詩を考えている。

これは労働なのではないか。

私の労働を邪魔をする人たちがいる。

しつこく邪魔をする。

眠らせようとしない。

都合のいい理由を作って眠らせようとしない。

私がやっていることを労働だと認めているのだ。

私はこれからも自分の労働を続ける。

 

3:労働基準監督署は企業の側に大きく傾いている

 

弁護士事務所を探すために労基署に入った。

教えてくれなかった。

いったん外に出たがサグリを入れるためにふたたび入った。

私は以前の勤め先で労基署に訴えるとおどしたことがある。

私のことはすでに労基署に知られていたようだ。

リハーサルまでしたような雰囲気だった。

あくまで私の推測で証拠はない。

若い人に替わって奥からいかにも偉そうな人が出て来た。

最初から最後まで一瞬も視線をそらさなかった。

私が人と視線を合わせるのが苦手なことを知っていたのだ。

労働基準監督署は労働者のためのものである。

そう思っている人がいたらそれは幻想である。

 

4:名護市議会全員一致

 

となりの騒音について名護市議全員に苦情の手紙を書いた。

行政に任せて返事がなかった。

私は自閉症で電話にでません。

こちらからは電話をします。

全員に手紙を書いたのは誰か一人でも違った反応をするのでは

と思ったからである。

期待を裏切られたというよりも予想通りであった。

全員一致で反応がなかった。

名護市議会議員は何事も行政まかせで全員一致である。

もし水面下で動いていた議員がいたなら感謝申し上げます。

 

5:「天」と「吉」の字

 

「天」も「吉」も上の横棒が長い。

書道全集などを見るとほとんど下の横棒が長い。

どちらが正しいか。

どちらも正しい。

人名に「吉」の字がある人にはこだわりがある。

必ず下の横棒を長く書く人がいる。

学校では上の横棒を長く書かないとペケである。

なぜ学校ではそうなっているのか。

学校の漢字は「康煕字典」を基準にしている。

「康煕字典」では上の横棒が長いのである。

なぜ「康煕字典」は上の横棒が長いのか。

「説文解字」を基準にしているからだ。

なんにでも基準がある。

学校は基準が第一である。

基準を守らなければペケである。

 

6:Avenue・通り・筋・筋(すうじ)

 

筋小(すうじぐぁあ)はとても細い道だ。

御堂筋は大きな通りだ。

大坂では大きな道を筋という。

次に大きな道が通りだ。

大坂の筋は英語では「Avenue」という。

The Fifth Avenue」は五番街だ。

筋は東京・京都では「通り」という。

初めて御堂筋を見た時これが筋かと思った。

 

7:Bag:バッグ

 

バッグの意味は口があって何かを入れるものらしい。

紙袋もハンドバッグも布袋もバッグである。

紙袋は「Paper bag」である。

日本人にはどこが「バッグ」なのかわからない。

 

8:Beggar:乞食

 

乞食という言葉は抵抗があるが差別用語ではないらしい。

アメリカでは乞食は法律で禁止されている。

ただちに警官につかまるらしい。

だから鉛筆とかカミソリとかを並べる。

一応商売ということにする。

お金だけを空き缶に投げて品物は受け取らない。

法律上は乞食ではないことになる。

盲目を装って音楽などを聞かせる乞食もいる。

日本の乞食とは外見だけが違うようだ。

 

9:Shell:貝

 

日本語では中身を「貝」という。

外側を「貝殻」という。

英語では貝殻を「shell」という。

貝を「shellfish」という。

貝殻が先なのだ。

最初に見たのが貝殻なのだ。

先祖が海から遠くに住んでいたのだ。

 

10:英語の風物

 

現代は外国の事物を映像で見ることができる。

江戸時代にはパンを見たことのない人がいた。

どのように説明しただろう。

絵に描いたとしてもほとんどわからない。

江戸時代に外国語を勉強するのはたいへんだった。

実物の映像があることは外国語の習得に必要なのだ。

外国を目で見ることが出来て実際の外国語が聞ける。

これほど恵まれていながらなぜもっと勉強しないのか。

江戸時代の人のほうが現代人よりも外国語ができたのだ。

 

11:方言札

 

実物を見たことがある。

戦前は共通語の普及のため学校では琉球語が禁止だった。

違反したものは方言札を首にかけられた。

別の生徒が琉球語を使った場合にその人に渡す。

なぜか北朝鮮を思い出す。

その成果が現在の沖縄である。

琉球語を話す人に多額の賞金を出しても無理である。

多額の賞金を出しても英語を習得できる人はいない。

消滅しようとする琉球語を勉強するよりも

英語の勉強のほうがもっとたいへんなのである。

 

※ユーチューブの「朗読おもろそうし第二巻」の冒頭に方言札が出てきます。

 

12:醤(ひしお)酢に蒜(ひる)搗(か)きたてて鯛願ふ吾にな見せそ水葱(なぎ)の 

   羹(あつもの);万葉集3829

 

万葉の人々は日頃どんなものを食べていたのか。

何がごちそうだったのか。

貴重な歌である。

醤は醤油の原型のようなもの。

蒜は野蒜のことで沖縄のチリビラーに近い。

蒜に醤油のようなものと酢をかけて食べたのだ。

鯛はたいそうなごちそうだったようだ。

水葱はミズアオイのこと。

これを汁に入れて食べたようだ。

鯛が欲しいのに水葱を見せるなという意味。

 

13:人間は表現することによって存在する

 

いろいろな表現の仕方がある。

文章を書くことは一つの表現である。

とても難しい表現である。

なかなか手に負えない。

みんな敬遠する。

表現された文章を理解するのは難しい。

理解されないのに表現したい。

表現することが存在することなのだ。

人間は自己の存在を証明したいのだ。

表現することによって存在したいのだ。

 

14:琉球語はどうなるのか

 

琉球語は確実に消滅する。

これをくい止めることはできない。

ただしそれは話し言葉だ。

琉球語の文献は未来に受け継がれる。

読み言葉は存在し続けるだろう。

話して聞くことは消え去るだろう。

読むことだけは未来に残るだろう。

読めれば書くことも可能だ。

漢文は読み書きのみだ。

それでずっと伝わってきた。

琉球語は読み書きだけでも

未来に残さなければならない。

 

15:言語能力の及ぶ範囲が認識できる範囲

 

自分の言語能力を越えて何かを認識することは出来ない。

自分の言語能力がその人の世界なのだ。

世界がすべての人にとって同じだと思ってはいけない。

広い世界は深い言語能力を必要とする。

すべての人が自分と同じ言語能力だと勘違いしている人。

すべての人が自分と同じ認識力だと勘違いしている人。

世界の深さ広さは言語能力によって決まる。

 

16:完全な知識はない

 

完全な知識というものがあったなら

自由というものはない。

完全な知識よりも自由が大切だ。

知識は自由を束縛する。

自由は知識に挑戦する。

 

17:苦労と幸福

 

苦労と幸福は反義語か。

そうではないようである。

むしろ同義語なのではないか。

同義語になる時がある。

読書は苦痛である。

しかししあわせである。

仕事は苦労である。

しかし幸福である。

 

18:大理石につまずいた女の人

 

スーパーの中にあるパン屋で

店員と女の人が話をしていた。

けっこう長い時間であった。

女の人が帰ろうと向きを変えた。

とたんに大理石の上ですべった。

転倒して頭から血を流した。

店員はなぜかさっといなくなった。

たまたま医療関係の女の人がいた。

慣れた手つきで応急手当をした。

他の人が救急車を呼んだ。

私はなにも出来なかった。

パン屋の店員は見当たらなかった。

なぜいなくなったのか。

直前まで話をしていたので

巻き込まれたくなかったのだろうか。

それにしてもあのすばやさは何だろう。

転んだと同時に計算できたのか。

責任を逃れるのは本能なのだろう。

 

19:来ん世にもかかる月をし見るべくば命を惜しむ人なからまし(西行)

 

子供の時に見た月は大きかった。

そして今よりももっと美しかった。

今の月は子供の時よりも小さい。

これはただの思い違いだろうか。

どうもそうではないようだ。

まわりの建物が多くなりすぎた。

いろいろな夜の光が多すぎる。

なにもない所へ行ったなら

大きな月が見られるのだ。

西行の見た月は大きかった。

想像を超えて美しかった。

あの世にもこのような月が

きっとあるのだろう。

 

20:本物の拳銃

 

小学校の時に本物の拳銃を見た。

旧日本軍が使用したものだ。

床下に隠してあった。

さびて使いものにはならなかった。

埋もれていたのを拾ったのだろう。

友達の家に行ったら庭に砲弾の弾頭があった。

いわゆる不発弾で長さが40センチほどだった。

信管が抜いてあるから大丈夫だと言われた。

まだいくつかあるらしかった。

もらってもいいと言うので家に持って帰った。

母に交番に届けたほうがいいと言われた。

弟といっしょに交番に持って行った。

戦後25年まだ戦争のあとが残っていた。

 

21:蔡鐸

 

 暁発蘭渓

客舟春暁出蘭渓

極目雲山與水斉

人語櫓声江上下

還聞楊柳有鶯啼

 

Saitaku

 

 Leaving Rankei in the dawn

 

A trip-boat leaves Rankei in the spring dawn.

As looking over, mountains and clouds are similar to the water.

Chatterings and scull-sounds are ups and downs over the river.

Hearing again warblers’ songs in willow trees.

 

22:あおげば尊し

 

思(ぅん)び出(ぃん)じゃしぇえ尊(たっとぅ)さん

我(わあ)先生(しんしい)ぬ恩義(うんぢ)

習(なら)ゆる庭(なあ)んかいん早(なあ)幾年(いくとぅし)

思(うむ)いねえ一杯(いっぺえ)早(ふぇえ)さん此(く)ぬ年月(とぅしちち)

今(なま)どぅ別(わか)りでぃか又(また)やあ

 

23:三社祭

 

浅草の三社祭を三度見た。

各地区が自分たちの御輿をかつぐのだ。

大勢の見物客だ。

かついでいる人たちがかっこいい。

女の人たちはみんな男前だ。

誰を見ても美人なのだ。

みんな真剣だ。

笑っている人がいない。

みんな緊張している。

しらけている人はひとりもいない。

御輿をかついでいるだけなのに。

見物客が多いのがよくわかる。

 

24:ほうずき市

 

7月の9日・10日は四万六千日だ。

この日に浅草寺にお参りすると

四万六千日と同じ功徳があるらしい。

それ以外の日にお参りする人たちは

納得できるのだろうか不思議だ。

この日にほうずき市がある。

オレンジ色のほうずきは美しい。

境内にならべられたほうずきは

夜になるとどれも光り輝いている。

まわりの人たちは全く目に入らない。

 

25:京都の右京と左京

 

京都駅を降りると向かって右側が左京

左側が右京である。

不思議に思う人があまりいない。

御所にいる天皇が南を向いた場合である。

京都は天皇中心の町である。

平安時代には左京が栄えていた。

右京は京都のいなかのようだった。

その名残りが今もある。

左京ははなやかであり

右京は何となくひなびている。

歩いたことのある人はそう感じるだろう。

 

26:龍谷大学

 

沖縄で「りゅうだい」といえば「琉球大学」である。

京都で「りゅうだい」といえば「龍谷大学」である。

西本願寺系列の大学だ。

京都で電車に乗ると「りゅうだい」という声をよく耳にする。

やしきたかじん田端智子らの出身校だ。

深草キャンパスの学園祭に行った。

どちらが御客さんなのか分からなかった。

今の大学生は勉強する時も御客さんなのだろう。

 

27:志賀直哉の旧宅

 

奈良の志賀直哉の旧宅に行った。

中には入らなかった。

大勢の団体客がいてわずらわしかった。

外から見た。

志賀直哉はしぶいと思った。

こんなところに住んでみたいとは思わなかった。

私には古びた小さなアパートが似合っている。

 

28:能力主義

 

アメリカは能力主義の国だ。

日本もそれに近い。

能力とは金を生み出す力だ。

能力のない人はお金に恵まれない。

お金を生み出す以外の能力はどうなるのか。

それは能力とは認められない。

無能な人なのだ。

お金と関係のない能力はどうなるのか。

そんな能力こそ本当の能力なのではないか。

 

29:佐田啓二

 

佐田啓二は交通事故でなくなった俳優だ。

彼はまじめであった。

事故に会うとまわりに大きな迷惑となる。

自分では運転しなかった。

一番安全と思われる後部右側の座席にすわった。

日頃からつねに安全に対して慎重だった。

事故は慎重さとは関係なくおこる。

自分で運転していれば事故にはならなかった。

車に乗っていた四人のうち彼だけが亡くなった。

事故は人間の慎重さを越えて起こる。

 

30:伏見稲荷

 

伏見稲荷へは何度も行った。

参道に入る大鳥居の前の店で

すずめの丸焼きを売っている。

伏見稲荷は五穀豊穣の神様だ。

すずめは五穀につく虫を退治する。

それならすずめは食べない方がいいのでは。

と思うがなぜかよく売れるらしい。

私も焼き鳥屋では食べたことがある。

境内は甲子園球場の22倍の広さだ。

行くたびに息切れがする。

京都にもまだ広い自然が残っている。

境内には御茶屋(休憩所)が多い。

御茶屋はいろいろな店だ。

高くて入ったことがない。

いったいいつごろからあるのだろう。

江戸時代からだろうか。

もっと前からだろうか。

先祖代々続いているのだろう。

今からここに店を出すのはむずかしいだろう。

京都は歴史の町だ。

御茶屋にもそれなりの歴史がある。

何を見ても歴史を感じるのが京都だ。

 

31:比叡山

 

比叡山へは2度行った。

京都ではなく滋賀県だ。

京都にこんなに大きな境内の寺はない。

息切れがする。

ここからは京都がまるごと見える。

京都を征服した気分だ。

僧侶もそういう気持ちだろう。

宗教的には確かに京都を圧倒した。

風景が僧侶に高揚した気概をもたらす。

もっともっと低い場所をさまよう。

宗教とは本来そういうものなのでは。

 

32:高野山

 

高野山にも二度行った。

電車から見える途中の景色がせつない。

境内を歩くといよいよむなしさがつきない。

さびしさ・せつなさ・むなしさが込み上げる。

ここを観光地として訪れる人達はどうだろう。

楽しく高揚した気分なのだろうか。

私には人生のはかなさを感じさせる場所だった。

 

33:うつつとも夢ともしらぬ世にしあれば有りとてありと頼むべき身か(実朝)

 

「すべては夢すべては真実」。

シェークスピアの言葉だ。

死とともに生きる私には切実な言葉だ。

すべてが夢だと思うにはあまりにも身にしみて

真実すぎる人生だ。

さびしさ・せつなさ・はかなさ・むなしさは

あまりにも真実すぎる。

これを夢だと思っても真実だと思っても

結局は同じことなのだ。

 

34:辰吉丈一郎

 

辰吉丈一郎はボクシングの世界チャンピオンであった。

彼は名前の「吉」の字の上を必ず「土」と書く。

「丈」の字の右上には必ず「´」を付ける。

実はそのような漢字はなく誤字である。

昔は名前の届け出を役所がそのまま受け付けた。

彼のお父さんが間違って届けたのだ。

彼はお父さんが届けた通りの字をそのまま書き続けた。

そのいちずさが世界チャンピオンをもたらした。

 

35:まがたま

 

まがたまは漢字で「勾玉」・「曲玉」と書く。

文字通り曲がった玉である。

分かりやすく言えばコンマを大きくした形だ。

魂の形だと言う人もいる。

昔は動物の牙をアクセサリーにしていた。

その名残だという説もある。

沖縄ではノロ・ユタなどが首にぶら下げる。

いかにも神女らしく威厳がある。

あの形には不思議な神々しさがある。

 

36:根拠のない自信

 

自信に根拠が必要か。

根拠を探している時点でそれは自信ではない。

根拠に自信の確かさを求める必要はない。

確かかどうかを決めるのは未来である。

 

37:英単語の収集癖

 

世の中の人にはいろいろな収集癖がある。

どうして人はものを集めたがるのだろうか。

お金をためるのも収集癖なのだろう。

どんなにお金があってもまだまだ欲しいのだ。

欲望に際限がないのは収集癖がよくあらわしている。

私には英単語の収集癖がある。

いくら覚えてもまだまだ覚えたい。

まことにありがたい収集癖である。

 

38:清少納言のかなしみ

 

枕草子にはかなしみを描いた場面が見られない。

私の読み違いかも知れないがそう感じられる。

かなしみにあまりふれたくはないようだ。

あえて避けているように思える。

清少納言はかなしみから遠い存在だったのではない。

かなしみを描かないことによって

むしろかなしみが伝わってくるのだ。

 

39:外国語と詩

 

外国語を勉強することは詩を勉強することである。

単語を覚えるにはそれをイメージしなければならない。

イメージせずに単語を覚えることはむずかしい。

単語を覚えることのできない人はイメージが出来ないのだ。

詩を読むことと単語を覚えることはよく似ている。

詩人には外国語が出来る人が多い。

外国語ができない詩人はめずらしい。

英詩人で外国語ができない人はまれだ。

彼らにはとくにギリシア語・ラテン語の素養がある。

詩を書くことと外国語を勉強することは関係が深い。

 

40:to constellate(星座を作る)

 

人間の想像力はすごい。

夜空の星には星座名がある。

そしてそれには物語がある。

星座は地球からみた場合の名前である。

それぞれの星は遠く離れていて何の関係もない。

それを関係づけるのは人間の想像力である。

関係のない所に関係を見つける。

それが想像力である。

 

41:曽益(そうえき)

 

 台江発棹

台江一棹泛清波

北闕遥瞻紫気多

自是聖朝饒雨露

満舡司唱太平歌

 

Soeki

 

Putting a pole in Daiko River

 

Putting a pole in Daiko River on clean waves.

Looking over Peking there are much auspicious sign.

I’m visiting Holy Palace where a lot of glory and grace.

People in the ship sing the song of peace and reign.

 

 

42:故郷の空

 

夕去(ゆうさん)でぃぬ天(てぃん)晴(は)りてぃ

秋(あち)ぬ風(かぢ)吹(ふ)ち

月(ちち)ぬ影(かあぎ)落(う)てぃてぃ

鈴虫(しじむし)ぬ鳴(な)ちゅん

思(うむ)ええ遠(とぅう)さん

故郷(くちょお)ぬ天(てぃん)

とお我(わあ)母父(あやあたありい)

如何(ちゃあ)為(そお)が

 

43:英語と日本語

 

英語と日本語はどちらがすぐれているか。

どちらもすぐれている。

日本語の欠点は外国人には習得がむずかしいことだ。

英語を勉強して思うことがある。

この宇宙に英語で表現できないことはない。

そして日本語もまさにそうである。

ふたつの言葉を勉強してほんとうによかったと思う。

 

44:ほたる祭

 

二十代のころ世田谷のほたる祭に行った。

今もほたる祭はあるのだろうか。

当時すでに世田谷は大都会だった。

いまはもっとすごい住宅地だ。

ほたるが飛んでいるわけがない。

カゴに入ったほたるがあちこちの木にかけてあった。

江戸時代にはカゴに入っていないほたるが飛んでいた。

私のこどもの頃のほたるは大きく輝き群れていた。

 

45:太陰暦

 

日本本土のカレンダーを見て沖縄の人は驚く。

旧暦がまったくのっていない。

旧暦がのっているカレンダーは沖縄独特だ。

本土の人は旧暦が何であるかわからない人が多い。

旧暦そのものが異次元のものなのだ。

あたりまえのものがあたりまえでない世界があるのだ。

 

46:ガラスケースに入ったおかず

 

沖縄にはあまり見かけない定食屋である。

ガラスケースの中のたなにおかずが並べてある。

作りおきで作り足してある。

卵焼きとか刺身とか御ひたしとか冷やっこなどだ。

自分で好きなだけ選べるのがいい。

取り過ぎると勘定の時に驚く。

欠点はいつ作ったのか分からない点だ。

お店を信用するしかない。

私にはとてもぜいたくな定食屋だった。

 

47:琉球におけるノロ・ユタ

 

琉球王国においてノロ・ユタはなぜ大きな存在となったか。

第二尚氏の初代国王尚円の奥さんが巫女的な人だったからだ。

尚円のあと弟が後と継いだ。

尚円の奥さんはノロを使って神のお告げだと息子を国王にした。

息子の名は尚真であり五十年在位した名君であった。

以後ノロ・ユタを重用する神権政治がはじまった。

 

48:上戸彩

 

格好をつけず

見えを張らず

ダサい自分でありたい。

全てをさらけ出して

格好悪い自分でありたい。

上戸彩の言葉である。

私が63歳で達した境地に

彼女は36歳で到達していた。

 

49:嘉手納カーニバル

 

小学校のころ嘉手納カーニバルは楽しみであった。

切符売り場に行った。

英語が通じなかった。

いつか必ず英語が話せるようになりたいと思った。

祖母が乗馬をすすめた。

馬がこわいのでことわった。

食べ物がみんなおいしかった。

アメリカ人はだれもが親切であった。

あまりきれいなアメリカ女性はいなかった。

 

50:はだし

 

沖縄戦を経験した人の話である。

沖縄の兵隊はいざという時に

靴をかかえて裸足で走ったそうだ。

はだしのほうが速かったらしい。

はだしは戦前の沖縄人にとってふつうだったのだ。

小学校のころ裸足で登校する生徒がいた。

そのなごりであった。

いまの人には想像もできないことだ。