ひとりだけの詩:6
1:名護市長への手紙
名護市長に手紙を出す予定であったがやめることにした。
出しても市長が直接見るわけではない。
下の役人が見て適当に処理し市長のもとへは届かない。
役人はけしてきちんと対処してはくれない。
自分たちのプライドを守るのが彼らの仕事なのだ。
いつまでもかわることなく進歩も向上心も夢も理想もない。
きまりを守ることだけが彼らの仕事なのだ。
きまりを守ることだけで給料をもらっているのだ。
私の手紙が届かないと次の対処に困るらしい。
手紙が届けばどのようにも対処できるのだ。
彼らの都合のいいように対処できるのだ。
そのような手紙は出しても全く意味がない。
2:名護市長への手紙の内容の一部
となりの部屋で夜中に小さな物音がする。
私が眠り始めたのを見計らって物音がする。
間隔をおいてしつこく繰り返される。
11時から一時半まで続くことがある。
犬の小さな泣き声も聞こえてくる。
床のきしむ小さな音も聞こえてくる。
三時ごろにも小さな物音がする。
六時ごろには身支度をする大きな音がする。
ドアを開け閉めする大きな音がする。
七時にも大きな物音がする。
もう一週間も続いている。
いったいいつまで続けるのだろう。
彼らはみんなこのことを知っているようである。
3:首里城正殿の焼失を眼の前に涙する女子高生
首里城が焼失するのを目の当たりに涙する女子高生。
あの涙は何の涙か。
沖縄の象徴が消失することへの無念・惜別からか。
首里城はいつから沖縄の象徴になったのか。
戦後復元された首里城正殿への県民の熱い思い。
それは幻想である。
きらびやかな物質・物体が生み出した幻想である。
戦前の首里城は士族階級の平民からの搾取によるものだ。
農民の年貢の上に築かれたものだ。
琉球王国はけしてかがやかしいものでも
うつくしいものでもなかった。
それは首里城の復元によって強まった幻想である。
首里城正殿の焼失はその幻想を打ち砕いたのである。
今度首里城が復元されたなら幻想を捨てる時である。
4:琉球王国時代に琉球語は外国語であった
琉球王国時代に琉球語は外国語であった。
明治・大正・昭和初期生まれの沖縄人はバイリンガルであった。
バイリンガルとは何か。
琉球語で話す時に日本語で考えてから琉球語に訳すのではなく
最初から琉球語で考えてから話すということである。
昭和初期生まれ以前の沖縄人はバイリンガルが
どういうものかよく分かっていた。
今の沖縄県民にはバイリンガルの意味が分からない。
戦後アメリカで勉強した沖縄の留学生たちは英語がよくできた。
バイリンガルをすでに体得していたのだ。
英語で考えてから話すことができたのだ。
琉球語という母国語を失った意味は大きい。
5:手話と英会話
手話はむずかしい。
健常者にとってはなおさらだ。
人前で手を動かすことがまずたいへんだ。
最初の段階で気恥ずかしさがある。
この気恥ずかしさを乗り越えられる人と
そうでない人がいる。
そういう性格のひとがやはりいるのだ。
英会話も同じである。
人前で口を大きく動かし音を出す。
これはたいへんな気恥ずかしである。
これを乗り越えられずに
一生を終わってしまう人が意外に多い。
6:水に落ちた犬は打て
水に落ちた犬は打て。
中国のことわざである。
打てば勝手にはい出す。
そういう意味であろう。
勘違いする人がいる。
水に落ちた犬をさらに
追い詰めようとする。
そういう人が大勢いる。
7:ワープロが開かない
ワープロが突然開かない。
文系のうえに原始人である。
手をあわせる。
あれはなぜだろう。
神社にお参りしたときに
ご仏前に
オリンピックの決勝戦を前に
合格発表を前に
ロケットの打ち上げを前に
なぜ人は手を合わせるのだろうか。
8:芸能人の発狂
芸能人が発狂したという話を聞かない。
プライドが高いので発狂するよりも
死ぬ方を選んでしまうのだろう。
死を選ばずにいしょうけんめいに
生きて発狂してしまう人。
私もそのひとりになるかもしれない。
9:那覇の松川小学校
松川小学校に一年ほどいた。
具志川市から越して行った。
沖縄にも都会と田舎があった。
那覇は洗練されていた。
生徒がみんな上品に見えた。
ことばも共通語に近かった。
友達の家に行くとごちそうだった。
コカ・コーラがでた。
オキコのピーナツパンが5セント。
コカ・コーラは15セントだった。
田舎者をちゃんともてなしてくれた。
10:こわい道
幼少のころあそこを渡ってはいけない。
というこわい道があった。
那覇市で車の交通がはげしかった。
一度もひとりで渡らなかった。
あそこを渡ると確かに死ぬかもしれなかった。
いつになったらあそこを一人で渡れるだろう。
とうとうその日はこなかった。
11:テレビ
名護市の汀間に2年ほどいた。
テレビがなかった。
となりの家に祖母といっしょに見に行った。
「琴姫七変化」であった。
松山容子はかっこよかった。
ボンカレーのおねえさんである。
あのようにいろいろと変われたらなあと思った。
私は職を35回ほど変えた。
眠っていたので祖母におぶられて帰った。
12:結婚率
2040年には結婚率が30%になるらしい。
国民の三人に二人は結婚していないことになる。
結局人間はコミュニケーションがへたなのだ。
人間の社会性はあやうい橋なのだ。
なんとかごまかしながら社会を維持しているのだ。
相当なストレスで維持してきたのだ。
もうすでに限界状態なのだ。
13:みどり丸沈没
1963年那覇泊港から久米島に向かっていた定期船の
みどり丸が泊港から10qのチービシ付近で沈没した。
熱帯低気圧による横波を受けわずか10分で沈没した。
那覇に連絡が届いたのは沈没から5時間後であった。
救助がおくれ死者86名行方不明者26名であった。
行方不明者とは遺体が見つからなかったということだ。
現在では考えられないような惨事である。
このような遭難事故があったことの記憶は県民にはない。
14:宮森小学校米軍機墜落事故
1959年米軍機が石川市の宮森小学校に墜落した。
トタン屋根の校舎に衝突炎上。
小学生の死者11人住民の死者は6人であった。
火だるまになって水道のあるところまでかけて
息絶えた児童もいたらしい。
事故から17年後に後遺症で亡くなった人もいた。
米軍機は海上に爆弾を投機したあと操縦不能となった。
パイロットは機首を人家の無い山に向けてパラシュートで脱出。
その後機首が運悪く民家のほうに向いてしまった。
墜落場所は児童がおよそ1000人もいた小学校であった。
普天間基地周辺でこのような事故がおこならないと言えるか。
15:本を読むのは労働である
本を読むのは労働であり勉強もまたそうだ。
本を読むのは趣味で楽しいものだと思っている人がいる。
たしかに結果としてはそうだが本を読むのは
めんどくさいし苦痛であり重労働である。
ほんとうかどうか試してみればすぐにわかる。
楽しさを得るのはめんどくさいし苦痛で重労働なのだ。
はためには楽しいことばかりが見えるようである。
16:吉屋チルー
吉屋チルーは沖縄の女流歌人である。
吉屋は遊女屋の名前である。
8歳で那覇の遊郭に売られ18歳でなくなった。
平敷屋朝敏は彼女の伝記を書いた。
彼は薩摩の在番所に訴状を三度も
投げ入れてはりつけの刑になった。
当時の農民の窮状を訴えるためである。
吉屋チルーの影響も大きいだろう。
吉屋は二度とこの世に生まれ変わりたくない
という歌を残している。
17:原節子
原節子は美人すぎる女優であった。
93歳で亡くなった。
引退後は52年間隠遁生活をおくった。
何度か隠し撮りはされた。
美人のままでこの世を去った。
隠遁生活は言葉をかえると引きこもりだ。
人間は52年間も引きこもることができるのだ。
18:京都の地蔵盆
地蔵盆は地蔵菩薩の縁日だ。
地蔵菩薩は子供の守り神だ。
地蔵盆は子供のお祭りだ。
地蔵様をきれいに掃除する。
名前入りの提灯をかざる。
地蔵様に御菓子をそなえる。
そのお下がりをいただく。
お下がりが子供の楽しみだ。
毎年8月23日頃の行事だ。
京都ではいまだに行われる。
19:給食のパンを届ける女の子
体が弱く小学校の頃はよく学校を休んだ。
学校の給食の私の分のパンを届けてくれた。
味のないコッペパンはおいしくはなかったが
届けてくれたパンはなぜかおいしかった。
やさしさとありがたさの味であった。
いまはそんな親切な先生もやさしい女の子も
存在することができない時代なのだ。
20:桃山陵
京都伏見の桃山御陵は明治天皇の御墓である。
山稜であり階段が驚異的である。
あの階段を二度も上り下りした。
稜の印象はとてもつつましやかであった。
史上最高の天皇の御墓とは思えなかった。
御墓と業績とは何の関係もないことなのだ。
ここに埋葬するのは明治天皇の遺言だった。
明治天皇は16年しか京都に住んでいない。
やはり京都がこいしかったのだ。
生まれて幼い頃若い年月を過ごしたところは
人間にとって格別な場所なのだ。
21:Journey inward
To make poems is the journey inward.
There are a lot of journeys in my mind.
I have never been abroad to the world.
My journeys inside are rich and broad.
22:善く泳ぐ者は溺れる
善(ゆ)く泳(うぃい)じゅる者(むの)お溺(うぶ)りゆん。
人(っちゅ)や胴(どぅう)ぬ勝而居(まさと)る物(むん)
居(うぅ)てぃどぅ却(けえ)てぃ躓(ちまぢ)ちゅる。
勝(まさ)てえ無(ねえ)ん物(むの)お何(ぬう)ん
支(ちけ)え無(ねえ)らん。
勝而居(まさと)る物(むん)ねえ
善(ゆう)気付(きいち)きらんねえ成(な)らん。
23:京都の夏
京都の夏は暑いといわれる。
私は京都で8年過ごした。
沖縄人なのでそれほど暑いとは感じなかった。
ただ一度京都はほんとうに暑いと思った。
8月13日に自転車がパンクしていた。
修理に2、3日かかる。
会社まで歩かなければならなかった。
往復10キロの距離である。
電車もバスも通っていない。
あの時はさすがに暑かった。
京都の暑さを実感した。
24:風見鶏の館
神戸の風見鶏の館のすぐ後ろのアパートに住んでいた。
寝ぼけたジャージ姿でおもての販売機に行った。
この世のものとは思えないきれいな女の人達がいた。
当然のことであるが観光客であった。
まったく不似合いなのは私だったのだ。
私はどのような場所にいても存在自体が落ち着かない。
25:東京の塾
東京の江戸川区の塾で講師をしていた。
とても仲の良い小学生の女の子が二人いた。
ああいいなあと遠くから見ていた。
ある日別の女の子が一人入塾した。
仲の良かった二人のうちの一人が
新しい女の子と仲がよくなった。
とり残された女の子は一人ぼっちになった。
女の子は三人以上いると必ず二つに分かれる。
二人の時仲がよく見えたのはほんとうは
すでに二つに分かれていたのだ。
そばで見ると仲が良いように見えただけなのだ。
26:京都の豆腐屋
京都の豆腐屋でバイトをしていた。
店の主人はすごかった。
朝の6時から夜の9時まで働く。
注文の多い時は深夜になることもある。
休みは日曜日だけだ。
30年以上もそのような生活だ。
指の一つが曲がっていた。
怪我をしたが病院に行かなかった。
注文を受けていたからだ。
指の骨は曲がったままで固まった。
京都の豆腐屋はすごい。
27:浅草
柴又から京成線で浅草まで仕事に行った。
決まった電車なので決まった人に会う。
バラの絵柄のあるバッグをもった女の人がいた。
電車を下りて仲見世を歩くのも同じだった。
いつも後ろ姿で顔を見ることがなかった。
決まった時間に決まった場所を通るとそうなった。
時間と場所を変えて顔を見ようとは思わなかった。
28:敬天愛人
京都の仕事場のすぐ近くに大きなホテルがあった。
フロントに西郷隆盛直筆の「敬天愛人」があった。
ほとんど毎日のように見に行った。
何度見てもあきることがなかった。
琉大図書館に湯川秀樹直筆の「学而不厭」があった。
今はどこかに大切に保管されているらしい。
代わりに図書館の入り口に石碑がある。
学生時代は「學而不厭」を毎日のように見た。
毎日のように見てもあきない書はあるのだ。
29:坂東玉三郎
浅草公会堂に坂玉の歌舞伎を見に行った。
女の人よりも女らしい人がいるのだ。
なぜ女の人よりも女らしくできるのか。
女の人とは演技する生き物だからだ。
演技がうまければ女の人よりも
はるかに女の人らしくなれるのだ。
坂東玉三郎はほんとうに演技がうまいのだ。
30:雪かき
兵庫県のいなかで雪かきをした。
道路に積もった雪をかくのだ。
降ったばかりの雪ではなかった。
ほとんど氷のような雪なのだ。
気の遠くなるような作業であった。
ためしに水をかけてみた。
水は雪とほとんど同じ温度だ。
かけるとすぐに氷になってしまった。
氷の上に氷を作ってしまったのだ。
沖縄のいなかものであった。
31:FEN
沖縄には昔FENのテレビ放送があった。
たしか6チャンネルであった。
日本語の民放は12時すぎには終了だった。
FENは深夜遅くまで放送していた。
私はよくFENを見た。
「General Hospital」、「Roots」などであった。
ニュースもよく見た。
現在はもっともっとめぐまれた環境にある。
なぜもっと英語を勉強しようとしないのか。
32:ムーチー
小学6年のころ祖母が出来立てのムーチーを持って来た。
現在のうるま市から那覇までバスに乗って来た。
祖母は車に酔う体質だった。
私の年と同じ数のムーチーがくくってあった。
姉と弟の分もそうであった。
私はいまだにムーチーが大好きである。
33:母の木登り
母は木登りが得意であった。
叔父が庭に立てた木登り用の竹竿を
するするとあっという間に登った。
深夜に母がアパートに帰宅した。
ドアをノックしても起きない。
子どもは眠るとなかなか起きない。
何度たたいても起きない。
母は隣の部屋の人をおこした。
隣の部屋のベランダをつたって
私達のベランダにおりた。
ベランダからは寝ている場所がすぐだ。
ようやく子供を起こすことだできた。
私達の部屋は三階であった。
34:祖母と遠足
名護市瀬嵩の久志小学校から
中城公園まで遠足に行った。
祖母と同伴であった。
祖母も私も車に酔った。
中城公園は遠かった。
途中で気分が悪くなった。
バスを止めた。
道のそばで吐いた。
みんながじっと待っていた。
35:サークルKサンクス
コンビニでバイトをしていた。
発達障害者にはむかなかった。
同時並行に仕事ができなければだめだ。
私は二つのことを同時にすることが苦手だ。
客とのコミュニケーションも苦手だ。
23日でやめてしまった。
36:辰野隆
隆と書いて「ゆたか」と読む。
フランス文学者である。
昔はあこがれていた。
彼の直筆の色紙を持っている。
20代のころ大坂の中之島図書館で
彼の随筆を借りて読んだがむずかしかった。
今彼の随筆を読み返すと全然おもしろくない。
漱石を尊敬しているだけに
知識のひけらかしが多い。
引用文献が多すぎる。
自分の考えがほとんどない。
小林秀雄の文章にひけらかしや
引用文献がすくないのは彼のせいだろう。
小林秀雄は辰野隆の東大での教え子である。
37:マルベル堂
浅草の仲見世の横道にマルベル堂がある。
日本唯一のプロマイド専門店である。
デビュー直前・直後のタレントを
ただで撮影してプロマイドにした。
プロマイド自体がステイタスだったのだ。
私は浅草の喫茶店でバイトをしていた。
マルベル堂の営業の人が常連であった。
彼が伊藤かずえと打ち合わせをしていた。
彼女は17才ぐらいであった。
私が彼女にコーヒーを出した。
伊藤かずえはその後有名な女優になった。
売れることなく消え去った人達が
どれほどたくさんいたことだろう。
38:鎧駅
山陰本線の鎧駅に行ったことがある。
日本で一番風景が美しい駅だと思う。
これほど海に迫った駅はめずらしい。
映画・テレビのロケでよく使われた。
NHK朝のテレビ小説にも登場した。
雪がちらちらと降る冬のことだった。
39:川柳川柳
新宿の末廣亭で川柳川柳の高座を見た。
「昭和歌謡史」であったと思う。
彼は歌がうまかった。
体が歌といっしょに動いた。
あのように体を動かす落語家をいない。
演じている本人が楽しそうであった。
聞いている人が楽しくないはずがない。
彼はつい最近なくなってしまった。
40:隠れ家
小学校のころ自分の隠れ家を作った。
小山のすそに横穴を掘って
板切れを組み入れた。
ほとんど使うことがなかった。
ただ隠れ家が欲しかっただけだ。
そんなものがあるというだけで
なぜか安心で気分がよかった。
41:Indignation is just myself
I do not hate people at all.
I only have to say something to you.
I cannot exist without blaming people.
Making poems is criticizing someone.
You have to criticize me by word.
Do not blame me with harassment.
42:家書万金に抵る
何故(ぬうち)今(なま)ぬ人(っちょ)お手紙(てぃがみ)書(か)かんがやあ。
メールぬ有(あ)てぃん手紙(てぃがめ)え別(びち)。
手紙(てぃがみ)ん特別(とぅくびち)な技事(わじゃぐとぅ)どぅ成(な)たがやあ。
今(なま)ぬ人(っちょ)お字(じい)ん彼(あん)し書(か)かん。
字(じい)書(か)ちゅしん強技(ちゅうわじゃ)成而居(なとお)ん。
ペンぬ字(じい)迄(までぃ)ん筆(ふでぃ)ぬ如(ぐとお)く
遠(とぅう)さに有(あ)る世(ゆ)ぬ中(なか)に成而居(なとお)ん。
43:有銘
幼稚園のころ一週間ほど東村の有銘にいたことがある。
借金に追われて祖母と弟と三人で引っ越した。
四畳半の小さな薄暗い部屋にはだか電球が光っていた。
朝おもてに出ると海だった。
有銘の海は浜辺がないさみしい海岸であった。
いまだにときどきあの風景が頭をよぎる。
44:バス通学
琉大へはバス通学だった。
私は車に酔う。
朝が早いうえに車酔い。
とても授業どころではなかった。
大学の近くに家を借りるお金はなかった。
大学をやめてしまった。
そんな理由で大学をやめる人がいたのだ。
45:左側通行
米軍統治下の沖縄では車は右側通行であった。
1978年7月30日に左側通行になった。
復帰から6年後である。
なぜ六年間も待ったのか不思議である。
7月30日の0時に左側通行になった。
表にでて様子をみたが車が全く通っていなかった。
翌朝起きると左側通行になっていた。
あとで聞いたがほとんど全く事故はなかったらしい。
あれほどのことがあれほど簡単に行なわれたのだ。
46:29枚のハガキ
30代のころ好きな女の子の誕生日に俳句を送った。
彼女の30歳の誕生日なので俳句を30個贈ることにした。
ハガキを30枚用意して30個の俳句を書くことにした。
ハガキを一枚書き損じてしまった。
俳句は30個できている。
私は29枚のハガキを投函した。
理屈をいろいろと述べた。
彼女はこれほどかと思うほど非常におこっていた。
三十歳の誕生日に29個の俳句を贈る男はバカである。
30という数字にこだわる女はほんとうになさけがない。
47:シーナ・イーストン
二十代のころシーナ・イーストンのコンサートを見た。
「ユアアイズオンリー」などであった。
今はおばさんであるが当時の彼女は美しかった。
彼女は私より一つ下であるが実に堂々としていた。
おの落ち着いた雰囲気に圧倒された。
自信から来るものなのだろうか。
天性のものなのだろうか。
努力の末のものなのだろうか。
私にはほど遠い存在であった。
48:柴又のアパート
まだ二十代前半だった。
葛飾柴又のアパートに一年ほどいた。
家賃が1万5千円であった。
東京のいなかであった。
トイレが汲み取り式であった。
二階だったのでまだいいほうだった。
埼玉の彼女がトイレを見て驚いた。
埼玉にもないらしい。
当時の柴又はまだいなかだった。
49:比嘉秀平
比嘉秀平は戦後沖縄の初代行政主席であった。
小学校の時に事故で右腕を失った。
苦学の末早稲田の英文科を卒業。
中学校の英語の先生となった。
英語力が基準で琉球政府行政主席になった。
韓国の朴正煕大統領の暗殺後臨時大統領となる
崔圭夏も英語力があったためだ。
吉田茂ももともとはそうであった。
三人の共通点はアメリカ軍相手の交渉に
英語が必要な時代であったことだ。
これをあなどってはいけない。
通訳なしでアメリカと交渉できる
日本の政治家は現在はたしているのか。
50:嫉妬
人間の嫉妬はすさまじい。
時として殺人に及ぶ場合もある。
嫉妬とは妄想であり幻想である。
人間は幻想により殺人を犯すことができる。
他の動物にはできないことだ。
殺人までいかない嫉妬もおそろしい。
相手の位置まではどうしてもいけない。
だから自分の高さまで引きずり下ろすのだ。
自分の高さまで下りた相手は自分と同等になる。
これ以上の幻想はない。